昭和四十八年六月十日 信心乃心得
一、信心する人は何事にも真心になれよ。
何事にも真心になれよと、信心の無い人又は無かった時分に別に悪いことはしよらんと云う様な事をよう言う人があります。
けれども、何事にも真心になれよと云うことになって参りますと、もう悪いことではないでしょうけれども、真心にはなっていない事の余りに多いのに驚くくらいです。
ですから信心者は信心者らしい生き方、在り方を身につけて行くと云うことが信心であり、そういう在り方の上に信心させて頂く者の幸福な道というのが自ずとついて来るのです。
永年信心しておってもひとつもそれに取り組まなかったら、いわゆる稽古しなかったら駄目です。稽古していくうちに、いわゆる
昨日の御理解じゃないけれども、入神の儀と思われる程しのことが出来て来る様になるのです。
神様がそういう心の状態の中にいよいよ入って下さる訳であります。金光様がそういう心の状態に入って下さると入られんのです。我情我欲、我がまま勝手と云った様な心が有ったんでは。
ですからそんなに真心になれよと云うことは、実に容易い事である様であって、実は大変至難なこと、難しい事である。云うならば稽古の楽しみと云う様なのがある。もうそれこそ、水の流れるに何の不平も不足もあらずと云う境地です。只それだけの事なのです。水が下から上へ流れると云った事じゃなくてです、もう上から下へ水が流れる様にそういう生き方なんです。そういう生き方を身に付けるのです。
そこに障害なものがあればそこに水は貯っていきましょう。そしてそれが又いっぱいになると横の方からこう流れていく。どんなに障害があっても、どんな器に入ってもその器どおりになっていくと云う行き方。何事にも真心になると云うことは、そう云うことだと思うのです。
言葉は簡単ですけれどもです、そういう状態になっていくと云うことは実は難しい。
ですから本気でです、素直でそういう稽古をしようと、素直だけじゃいかん。素直にその事を稽古しようと云う気にならなければ駄目です。
信心しておってもあんなずるいことをする、あんなこすい事をする、あんな汚い事をすると云われる様な事ではやはりいけない。そんならそれはしなければ立っていかんかと云うと、それはしない方がどの位楽なことじゃれ分からん。
欲な事とかしない方がどの位楽な事か分からん。それをやはり我情を出したり我欲を出したりして難しくないことを難しゅうしてしまう。
教主様のお詠の中から、何事にも真心になれよと仰る、真心になろうと教主様御自身が一生懸命お稽古をなさっておられる。精進をしておられる。それがようく伺われます。
「我がままは我自らを他をも又、傷つくるものと知りに思うに」自分が我ままであることは、自分も傷つけ他人も傷つけるものなのだなと。
分かっているんだと、それを知っておって失敗をする。こんな事ではならない。もうこん位な事は当り前と云う様な中からはこういうお詠は生まれてこない。
強い御自身の反省と云うものをなさっておられる。
「我こととなして、実意を込めて尽くすことの厳しさ逃れているか」
例えば、何事にも真心になれと云うことを、全ての事をです、そんならもう、我こととして、例えば最近は教会と共におかげを頂こう、教会の事を願えとこう言われる。
そんなら教会の事を自分の事の様に思うてと云う意味なんです。我こととなして実意を込めて尽くすことの厳しさ逃れているか と。分かっている。あんなにも朝から晩まで最近は教会と共に教会と共に、教会の大発展を祈れ、最近は発展を祈られる。わざわざお初穂を奉って合楽教会大発展を願っておられる方が最近はいくらも出て来ました。
だから祈っておるのですから、その教会の事をそんなら我が家の事と思うて、実意を込めて尽くせと云うのです。
ところがその事が簡単の事の様であるけれども、実際取り組んでみると厳しいことだと云うて逃れている様なことではないかと言っておられます。
「判断に誤りなしと己一人決めてもの言い居るにあらずや」
これはもう、人間関係の事でもそう。私が言うことに間違いはなか。と云うて例えば押し付けて言っておる様なことはないだろうか。そういう様なものの言い方をしてはおらんかと、云う様な事もです、何事も真心にならせて頂くことのこれは稽古の焦点にさせて頂くものだと思います。
「大切にするは粗末にせぬことと言い聞かせおり我自らに」
大切にすると云うことは、お粗末にしないと云うことだという事。自分に言い聞かせておりながら仲々、いかにも大切にしよるごたるけれども、他の事をスパーツとお粗末にするならもうそれは大切にしたつも流れてしまうような感じが致します。
沢山の良いことばっかりするよりか、悪いことを一つせぬ方がいいと言われるのもやっぱそういうところだと思うです。
何事も真心になれよと云う事は、例えば只今教主様のお詠を教主様御自身が一生懸命そこに精進なさっておられるお心の状態をお詠に詠んでおられる訳ですけれども、私共がそうい厳しい態度で自分に挑まないとこれは簡単なことなんですけれども分からない。
例えて申しますと、レモンならレモンこれはもうすい事に決まっている。いや酸いことその事が天然の味なのです。神様がそういう香りのよいあの酸いさと云うものを与えておられるのです。
こしょうは辛いのが当り前。そらこのこしょうは辛かと云うてから不足言うちゃならん。辛いことその事が神様のお恵なのだ。
せんぶりは苦いに相場が決まっています。あれがもう苦うもどうもなかなら、せんぶりとしてもう値打がありません。と云う程しに神様が妙なる味をそこに作って下さってあるのです。
私共が生きてる。私共が成長し、私共が真心になり、私共がいよいよお徳を受けて行くと云うことの為には、云うなら酸い事も苦いことも甘いことも、又は辛いこともあるのです。これは神様がわざわざ付けて下さってある味なんです。
それが酸いかつはいかん、辛かつはいかんと云わずに只々神様の下さるもの水の流れのそれのように、只合掌して受けて受けて受け抜いでゆく。受けにくいところ、受けられないところはじっと辛抱してその事を願っていく。そこから段々受けられる。それこそ小さい器に入れば小さい。丸い三角四角それぞれの器に入ればそれぞれの事にならせて頂けれると云う様な水の性状と云うものがです、ような状態に私共がならせて頂く事が何事にも真心になれよと。
だから成程真心と云うことを、私共がさせて頂いておる信心とも頂かせ同時に真心にもならせて下さると云うことはそういう事なんです。
何事にも真心になれよ と。
昨日夜の御祈念のちょっと前、ここへ座りましたら栄四郎がお届けに来ました。
今若先生は御本部参拝、それから幹三郎も同期の方達と今大阪に教会回りをしとる。だから今留守ですから兄ちゃんの代わりを今務めておる訳です。
と云うのは、毎日親教会にお礼参拝させて貰う。それを彼が承っておるのですけれども、昨日はお参りが出来なかった。それでその代わりにこれこれの修行をさせて貰いますと云うてお届けをしておる。
お手洗いの水を毎日あの人がきれいにお掃除して替えて、出来なかった時、又は朝の御祈念にお参りが出来なかったときなんかは、一日断食させて貰うと云う様なお前達の学生がそげな修行せんでよか、と言いたいような気もするのですけれども、彼自身がやはり神様に心を向ける精進をしておるのですから、私は止めだても致しません。お前ばっかりはいつも失敗ばかりして、いつも断食してそげな事じゃいけんじゃないかと、そう言いたいけれども、失敗することも又心を神様へ向けることだからと思って何とも申しません。
と言う様にです、そんなら私共が 今教主様のお詠を聞いて頂きましたように何事にも真心になると云うことにいよいよ焦点を置いて、たったこの事をおろそかにするところから過ちが起こってくる。
折角おかげがここ迄来ておるのに、そのおかげを逃してしまう。そういう例は沢山あるのですよ。
これは十のおかげを頂きたいと思うなら九分九厘迄行っとってもそれは十じゃないでしょうが。
ですからおかげを頂かんならん、特にそういう様な思いをする時には心を如何に神様に向けておらなければいけないいか、それでも尚且つ出来ないところは心からお詫びをさせて頂かなければならないかと云う事が分かります。
それを心にもかけずに何十年の信心をしておっても詳しゅなるだけで、お徳にもならなければおかげにもならん。
成程あっちは信心しござるけんと、云った様なものは身に付いてこない。
昨夜、東風会でした。楽人さん方の共励会です。それで私、ああた方が例えば琴とか笛とか笙、七力とそれぞれの楽器を一生懸命まあ昨日入神の儀と云うことであったから、本当に入神の儀と思われるようなその事を一生懸命に努めて稽古なさらなければいけません。 それを一生懸命稽古をしておる時、一生懸命お祭りの時奉仕をしておる時に、根性の悪いことを考えたり、汚いことを考えたりしないでしょうが。もう只々自分の吹き鳴らす笛の音に、自分のかき鳴らす琴の音にそれこそ聞き取れんばかりにして琴を奏で、云うなら笛を吹いておるでしょうが。それが真心なんです。
だからあの心をそんなら生活の上にも表していこうと云う精進なんです。
だから琴の稽古をする人が琴に一生懸命稽古精進させて頂いておる時の様にです、そんなら教えに取り組んで本気で脇見をせずに、その事に取り組んで行くならば必ずよい音色が出るようになるです。 そしてそのよい音色、云うならば自分自身の心が拝みたいような心の状態が生まれて来る。有難いなあと云う心が湧いて来る。
ところがさあ一歩教会を踏み出ると、もう嫌なことやら根性の悪いことやらを考えたりしておる様なことでは、成程楽人さんと云うのは神様が喜んで下さるだろうと思う。
私は昨日ちょっと御用で久留米に参りました。そしたら丁度井筒屋で骨董市が有っておりました。可愛らしい木魚の骨董が出とりました。これいっちょ買おうかと思うた。私はあれが大好きなんです。
私は昔からああ云う風な手にいつも数珠をかけて摘んでおると云う様なそういう事が好きなんです。
あの数珠をつまぐると云うことは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口には言わないけれども、もう心に行うている訳ですから、私はそういう気持ちが好きです。
仏前で木魚をポクポク、ポクポク、ポクポクとまあ叩くあの気持あの雰囲気が好きなんです。と云うようにです、仏様もやはりあの純真無垢な心の状態あの音色には神様も恐らく耳を傾けて下さると思うです。
だから私共がそういう純真無垢な心になると云うことが、神様が又目を細めて、はあー可愛い氏子じゃと云う働きが始まることが分かるでしょうが。
よっぽど買おうかと思いましたけれども遠慮しましたが、この位の可愛いあそこで叩いてみたんです。コツコツ、コツコツといい音色が出るんです。
ですからやはり、それが好きにならにゃいけません、信心は・・・・教えなら教えが本当に取り組ませて頂いて自分の心の中から、それこそ何とも言い知れない有難い心が湧いて来る。これが尊いのです。いわゆる我と吾が心が拝めれる信心の稽古と云うのは、神様を拝むと云うことよりも自分で自分の心を拝めれる様になる稽古だとさえ言われる位です。
楽人さん方が、そんなら楽を奏でなさると云うことは自分達も有難いと思うなら神様もあのリズムに乗って喜んで下さるだろうと私は思うです。
だからそういう尊い御用をしておるのですから、御用を頂いておる時だけではなくて、自分の家庭の上に於いても琴を奏で笛を吹いておる気持ちになると云うことを稽古すると云うことが、今日私が言う何事にも真心になれよと云うこと。
例えば笛を吹くでも他の事ども考えて吹けません。琴を稽古させて貰う時に楽譜も見らずに稽古は出来やしません。それでもやっぱり間違えたらお師匠さんが「ああそこは間違うとる」と言うでしょう。信心の稽古だって同じ事。一つの教えに本気で取り組んでよそ見をせず、脇見をせずにその事に精進させて頂くところに、教えに取り組むことがです、合楽の田中さんじゃないけれども、信心ちゃ、もう研け改まれと云う事ばっかり、よか話じゃあるたいと云う様な頂方をしておったならです、それを自分が行ずると云うことがかくも有難いことだと最近は感じると云うのはそれなんです。
脇見をしない、その事が云うならば何事にも真心になると云う事なんです。それには例えば、それに取り組むと実は大変やはり厳しいことなんです。
教主様がこのお詠の中に、大切にすると云うことは粗末にせんことだと、大切にすると云うことよりも粗末にしないと云うことに実意を込めて行かれること。しかもそれは仲々難しいことだと、けれどもそれは放っておいてはならないと精進しておられる御様子をね、詠のお心から聞いて頂いて、頂いた訳ですけれども・・・・
信心する人は何事にも真心になれよ。
だから簡単なようであります。実を云うたらそれが身につけたらこの様に簡単なことはないです。それこそ、水の流れる様な生き方になりさえすればよいのです。
ははあ、これはこしょうだな、これはせんぶりだな、これはにんにくだなという様にです、臭いからいやだ辛いからいやだと云わずに、それも天地の親神様の妙なる働き、神様のお恵でなからなこんな辛さやら苦さやらは、とても出来まいと思うくらいな味が付けてあるのですから、その味を私共も又味合わせて頂くと云うことは信心なのです。
だからそういう簡単なことでもです、そんならそれに取り組み精進しなかったら、やはり難しいことだ、いわゆるいつまで経っても信心しておる者の在り方と云うものは身に付かないと云うことですよね。 どうぞ。